冨松与作氏邸(広目)

慶長5年(1600)九鬼義隆により焼き討ちされた古材で、同6年頃現在の姿に、再建されたといわれている。元朝倉喜ヱ門の館として使われ、朝倉館といわれていた。
江戸時代は庄屋の役宅と住居を兼ねていた。現在は、冨松家の住居として使用されている。


旧鯉江方寿邸(半田市成岩)

弘化3年(1846)に、建てられる。現在は、半田市成岩の竹内家所有。
天保14年(1843)尾張落より御下命の煙硝壷を焼いていた小三郎窯に、時の尾張藩主、斉荘公がお立ち寄りになった。この時は、正住院にお泊まりになり、鯉江家では、赤瓦の茶室を造って接待した。しかし、次回は、是非、拙宅でのお泊まりを願って、縁起のよい丙午の年、(弘化3年)にこの家を建てた。
この建物は、方寿の代の明治の開花期には、土管の開発や、美術研究所の誘置など、常滑窯業の大発展に、大いに役立った。しかし、明治26年、半田の竹内家に移築され、現在に至っている。この家の箱階段の引き出しが金物道具入になっており、その箱書に、「明治二六年常滑町 高司所有 沢田儀左ヱ門より買入 新築大工 新美金之助」とある。(高司は方寿の養子)