常滑城址の碑

◆所在地 常滑市山方町一−五〇 天理教会入口
◆大きさ 高さ76p 幅16p

●文字
常滑市指定文化財
常滑城址
昭和四十三年十一月一日指定

●由来
常滑城北の石碑は天理教常滑分教会の門の前道路沿いに建っている。城跡は今より十数メートルも高い山になっており城山と呼ばれていてお城があった所と思われる。市場町の正法寺から東へ山方町二丁目の「茶水の井」のある辺りまで、お城の土地が続いていたが、大正始め頃に山を削って、南北に通る道が作られ分断されてしまった。
殿様は緒川の水野家から来た水野忠綱が初代で二代も三代も茶の湯、連歌など京都との交流も多かった。
三代水野監物守隆の時、本能寺の変が起こって、守隆は光秀についたので、京都嵯峨に逃れて入道となった後も、茶の湯連歌など風流な余生をすこした様に窺われる。
その後常滑城は織田信雄の支配となるが、天正十八年(一五九〇)信雄が秀吉に追われて尾張を去り、常滑を領していた家康の臣高木九助広正も徳川家康が江戸へ行くのに付いて行くことになり、その後に廃城となったらしい。
平成九年四月常滑の史跡を守る会が、常滑城築城五百年祭として城主の隠居所であったと思われる正法寺の前の所へ、常滑村古城の図の立看板と常滑城築城五百年の木柱を建てられたが、この木柱は三年後位には、立派な石の碑に建て替えられる事になっているとお聞きした。