狐塚の碑

◆所在地 常滑市晩台
◆大きさ 高さ160p 幅107p
◆建立年月日 平成二年九月吉日

●文字
   狐塚

●由来
狐塚由緒記
   狐塚は、昔、田の神を祭る祭場として築かれたものです。田の神は、冬は山に在り、春は田に降って秋の収穫が終わるまで稲作の守護に当たると信じられていました。その田の神の使いが狐であり、狐塚には狐が棲んでいたといわれています。
   この狐塚が造られたのは、この地に住んでいた人々が、三狐神社を祭って産土神とした時とほぼ同時代の奈良時代か、それ以前と思われます。
三狐神社も農耕の神であり、狐塚と相対して造られたようです。三狐神社の神もまた狐を使いとしていたとの口碑があります。
   古代、小倉地区は前山川・矢田川下流のデルタ地帯で、入江に囲まれた中洲のような地形であったと思われます。海岸では、魚・貝・海藻の採取とともに製塩が行われていました。東方の平地で稲作も行われ、ます池は、条里制の遺構といわれます。その稲作地区のいちばん西の端に狐塚が造られましたが、そこは、製塩を行う入江に接しており、塚は製塩で使った土器の破片や焼石のかけらなどの混じった土で造られました。    狐塚は、製塩遺跡でもあるのです。やがて、矢田川に堤防が築かれ、狐塚の部分を残して干拓が進み、周囲は次第に稲田と化していったと思われます。
   矢田川の近くの田の中には「大塚」と呼ぶ塚もありましたが、この塚は、矢田川の堤防決壊に備える土砂の蓄積場所であり、昭和五十五年着工の愛知県甫場整備事業の際にとりこわされましたが、狐塚はそのまま残されました。
   狐塚のあるところは、「狐塚」の小字名で呼ばれてきましたが、昭和六十一年の町名変更の際「晩台」と改名された上、狐塚そのものも雑草に埋もれたまま放置されていました。貴重な民俗文化財の煙減をおそれた    小倉地区の有志が相図り、塚の周囲を整備し、「狐塚」の碑を建て、末長く史跡としての保存を期することになりました。

平成二年九月吉日 小倉地区狐塚保存会
愛知用水土地改良区小倉管理班
(由緒記案内板より)