常夜燈

吉田 弘

常夜燈は、秋葉信仰とともに出現した。家の建て込んだ江戸の町で、よく火災が発生したところから、火伏せの神をまつる遠州秋葉山から、火之迦具土神や鎮火の法にも通じるという秋葉三尺坊を勧請し、夜通し献燈するための常夜燈が建てられた。
この秋葉信仰は、関東・中部地方一円に伝播していき、江戸時代中期以降には、どこの村にも秋葉山がまつられ、常夜燈が建てられ、秋葉講が組織されていった。
常滑市内での最古の常夜燈は、宮山の天満社に合祀されている秋葉社前のもので、受け台の正面に「秋葉大権現常夜燈」、右側に「寛政六寅歳正月吉日」、左側に「村中安全」と刻まれている。その後、市内では、享和年間に一基、文化年間に五基、文政年間九基、天保年問八基、弘化・嘉永・文久・元治に各一基ずつ、明治四基、大正一基と建てられていった。化政時代が建立のピークであったようだ。これは、当地方で秋葉信仰が盛り上がった時代であったばかりでなく、このころに、菜種油などの植物油が大量生産され、問屋や 株仲間が組織されて流通が盛んになったこととも関係があるようだ。
秋葉山にあげる常夜燈は、夜通し村を明かるくし、夜間の通行を助け、火災発生や盗賊の侵入を防ぎ、村内の安全を確保しようというねらいもあって、大型のものが造られた。
建てる場所も、秋葉社のすぐ前から、秋葉社へ通じる道端、あるいは、はるか遠州の秋葉山に向かって建てられる場合もあった。西之口は、町のまん中の四つ辻に建っているし、多屋では、海椙神社参道入口の旧街道添いに、瀬木は、相持院裏の道端、樽水は、3丁目の辻に、熊野では、熊野神社参道の辻に、古場は、4丁目の道端に、小鈴谷は、町中の辻に建てられていて、今も、電燈を引いて夜の街燈の役を果たしているものもある。暗い夜道を歩いて村へ帰ってきて、村の入口や村の中の常夜燈に迎えられて、ほっとした人も多か ったであろう。
海岸近くに建て、燈台の役を兼ねた常夜燈もあった。その場合、遠く海上からも見えるように、特に大型のものが造られた。大野の河口や砂子浜に近い松栄寺前のものがそれである。北条海岸に建てられ、今は、新開町3丁目に移転している常夜燈も大きい。市場の正法寺下より、秋葉堂とともに市場町4丁目に移された常夜燈は、常滑港を西にそびえたっている。保示の新居坂・苅屋町3丁目の常夜燈なども、燈台の役を果たしたものと思われる。暗い海を帰る漁船は、秋葉山の燈をたよりに帰港した。
常夜燈が大型となると、建立費用も大きかったが、その維持管理も大変であった。そのため常夜燈とともに、油代をまかなうための「油田(あぶらだ)」を確保することもあった。
宮山の「油手(あぶらで)」(正しくは油田)、大谷の「油田(ゆうだ)」、檜原の「勇田(ゆうだ)」(油田では)などの地名は、燃料の油を永代にわたって保障するための「油田」があったことを示している。
雨の日も風の日も、毎晩、油を補給して燈明をつけるということは大変な仕事で、これは、活動的な若者組が担当した。そのことを明示するために、奥条や瀬木・多屋の常夜燈には「若者中」と刻まれている。若者組は、火消しのほか、防火・防犯の役も受けもったのである。
常夜燈の形は一定で、社寺の献燈の目的のみの「燈籠」とは形が異っている。社寺のすぐ前へ建てるような場合は、多屋の海椙神杜などのように、春日燈籠型もあるが、写真を見てもわかるように、そのほとんどが一定の形を持っている。上から、宝珠・請花・笠・火袋・中台とあり、そこまでは、燈籠とほぼ同じである。中台には、横書きで「秋葉山」と彫られたものが多い。そこから下が異っていて、燈籠が同じ太さの竿と基礎から成っているのに、常夜燈は、中台以上を直接受ける台形の台があり、そこに「常夜燈」とか「村 中安全」、あるいは建立年月等が刻まれているのが普通である。その下は、下にいくほど大きい台が階段状に四段積まれている。背の高いものは、一番下の基礎の石垣が高く組まれているのである。概して、常夜燈の形は、献燈のための燈籠に比べて、装飾や模様も少なく、単純で素朴、下が広がってどっしりとした安定感がある。
明治の神仏分離後は、秋葉三尺坊大権現は、秋葉寺・可睡斎に、火之迦具土神は、秋葉本宮・秋葉神社にまつられ、毎年、12月15・16日に火防せ祭りが行われている。市内では、現在も、代参が秋葉山からお札を請けてきて、祈祷を行い、その後で会食をする「お日待ち」を行うところが多くある。小倉地区では、毎年12月に蓮生寺境内の秋葉堂前で火伏せ祈願が行われているし、門前道路脇の常夜燈には、電燈が引かれ、夜の街燈の役を果たしている。


平成10年1月6日発行
常滑郷土文化会
つ ち の こ