常夜燈写真の思い出


北条の常夜燈 (移築前:昭和4年頃)

神谷定子(つちのこ会員)

「つちのこで常夜燈を調べて居ります」。と、お話したことから、伊奈オサム氏から、コピーされた常夜燈写真を頂きました。
昭和4年ころと言われ、北浜回漕店の南にあった頃のもので、私は小学三年生でした。
そのころ、南はマルイチ石井陶器店で北は警察部長さんの家で、赤く丸い電灯が付いていた。
その北は後藤酒店で次は山仁回漕店と、次々に浮んで来ました。私は学校へ行くのに、会所の坂を下り、瀧田木綿問屋の前では荷を積む馬車を横目に見て、常夜燈の前を東へ曲り宮下を通って学校へ行きました。
帰りには友だちと、お宮さんの表坂から裏坂へ下り、冬になると椿の花をいっぱい拾って帰ったり、常夜燈の柵を廻って追いかけっこしたり、字の掲示板の読めない字を、皆でワイワイ言い乍ら見たりしたものでした。
すぐ西の岸壁には、犬に引かせた荷車や、牛車で運ばれた土管やかめ、焼酎瓶火鉢などがいっぱい積んであり、大きなダンベが横づけになり、船から岸壁にアユミ(板)を渡して荷役のおじさんやおばさんが、ニゴ(松葉)や石炭、岩塩などを下しては、又、岸の陶器類を積み込んでいた。歩くたびにアユミがしない、見ていて恐がいようだった。浜がひると大浜まで干上り、小浜(チイハマ)では浅蜊やマテも取れた。夢中で採っていて、汐が満ち船路が深くて渡れなくなり、友だちと大浜まで行き帰ったと、なつかしい思い出がいっぱい蘇って来ました。
ふと、どうして神主さんが?と思って、資料館に行った時出合った渡辺栄造氏にお聞きしました。
「ええっ昭和4年、それは道が広くなり、完成した時のもんでしょう。昭和3年から4年にかけてあの辺りを工事したでナモ」と即座に言われました。そして昔は、現在の本町通り位の道巾だったので、お祭りの時、山車が屋根につかえて困ったこと、イヤケの方は先に広くしたが、この辺りはその後だったと、教えて頂きました。
そしたら、傍らに見えた村田小蝶さんが、「あの道を工事した時は、道を半分づつ、コンクリートを流していたが、とても厚くて5寸(19センチ)位もあったよ」と、言われました。
思い出の中の常夜燈はとても高くて立派なものでした。今はどうかしらと思い見に行った所、台座は広くゆったり石段付きで、常夜燈の台石には青海波が彫られてあり、余りにも堂々として立派に鎮座されていました。敷地の花壇も整備されてきれいになっている。
近所の方にお聞きしたら、有志の方たちが集まり掃除をしたり、手入れをされているそうでした。

常夜燈のロマン

小春日和の暖かさに色々思い出して居りました。
北浜回漕店の南にあった常夜燈がなぜ、海上安全がなくて、秋葉山なのか。どうしてあんなに立派なのか、と。
ふと、伊奈氏に言われた事を思い出しました。
北条の古地図には現在、山長さんの辺り、会所の坂の突きあたりに常夜燈があったと、記してある。
それで調べて見ました所、古地図には、会所の坂から北へ丸中さんの辺までに6本
坂新窯  土井亀太郎     外
坂窯    村田信次郎     〃
中新窯  村田久左衛門   〃
古窯    村田理之助   外9名
懸窯    村田羽右衛門 外7名
伝中窯  渡辺幅太郎     〃

坂道を置いて
徳新窯 森下源太郎     外
墓と福新坂を置いて
福新窯 渡辺安右衛門 外3名
江戸時代よりの北条村の窯
北条村庄屋、平野七兵衛翁覚之書
と、
「陶栄百年の回想」関偉一郎著
に、記されてありました。こんなにたくさんひしめきあって、登り窯があったから、常夜燈が火伏せの秋葉山であったと思いました。
そして有為転変の世を経て、今日にあることを知りました。きっとこれからも、先人の祈りの心と共に新しく、常に新しく移りゆく常滑を見守りつづけてゆくでしょう。


平成10年1月6日発行
常滑郷土文化会
つ ち の こ