坂井の父 陸井太右エ門 [坂井]

太右エ門は1831年 天保2年、酒造業太右エ門の長男として生まれる。幼名豊久。 若くして父から酒造業をまかされた太右エ門は当時灘の酒に押され、苦しく、32歳の時、小鈴谷の盛田久左エ門と二人で千石船を買い江戸に販路を広げ、生産も伸び、以来豊久は酒造りの研究に積極的に取り組む。
当時、坂井には陛井酒造を始め、多くの会社があり、豊久を中心に坂井の人達の出資で活気にあふれていた。明治の初め頃は銀行もなく、お金の相談は陸井家を訪れる。こんな時でもお金は「成り立ち済まし」でよい、他村へ土地を売るな、土地は坂井の中で動かせが□ぐせで、村人達は苦しい時を乗り切った。明治38年日露戦争が終わる頃、景気が悪くなり、作れば作るほど赤字が出、200年余続いた酒造りを廃業した。他村の人に売れば高く売れる土地を村の人に買ってもらい、お家の一大事というのに最後まで村人の事を考えた陸井太右エ門の徳を慕って明治45年3月、お鋤山に碑を立てる。
現在は小鈴谷南保育園運動場西すみに豊久翁の碑は立っている。(鈴渓読本より)