三信公は慶長19年5月15日、駿府城西屋敷に生まれ、お七夜に家康に抱かれ「源太郎」と命令され脇差、羽織を拝受しました。
元和2年1月8日 家康より印籠を賜わる 4月 家康駿府城に薨す 国替えのため名古屋城二の丸の屋敷に入る 寛永8年2月 元服し大膳正好と改名 10年 藩主より知行四千石並びに屋敷を賜る(竹腰家の屋敷は現在の愛知県警の辺であったが 現在竹腰家は東京にあって14,5年目になっている) 11年 従五位下出雲守に叙任せられ信良(後に成方)と改名 14年 秋江戸に下る 15年 冬帰名 この頃藩主と快しからず登城せざる事頻りなり
寛永16年6月 病と称して常滑村に退き庄屋衣川八兵衛宅に寓居した (槍の達人であったため浪人たちに教えているのを謀反と疑いをかけられたが 調べに来た成瀬主計が寝所もないような生活を見て疑いは晴れた) 18年 三州菱地村郷士石川加左衛門女於寅を室に迎える 於寅方は三信公唯一の側室で三信公は正室は要らず他に側室も迎えなかった 天保2年4月30日 父正信卒去 5月15日 源一郎が生まれたが七夜にして夭(よう)し天沢院に葬る 26日 弟正晴跡目相続す 依って隠居し霜閑と号す 3年 藩主より合力米二千石と屋敷を賜るに幼時より二百石を本家に返す 4年 瀬木村に新邸落成(現在の西小学校の位置運動場の真中当りに大きな木があり、 その下に「竹腰三信公遺跡おねま」と書かれた脾があったが、 今は大木は取り除かれ校庭南の端に碑がある) 慶安元年 藩主より三徳備われるとして三信の名を賜る 延宝4年 榎戸村に於寅の居宅完成、寅栖屋敷と称す 6年 祥光山龍雲寺落成 〃 2月2日 於寅掩妝歳五三龍雲寺に葬る 元録元年2月21日 三信公卒去 享年七五龍雲寺に葬る 法名龍雲寺殿雲州大安三信