常滑焼の仕事は平安末期に始まって室町、江戸時代へと受け継がれ、一貫して生産してきたものは甕(カメ)でした。
天保年問からは、とこなべ瀬木村の住人鯉江方寿父子が私財を費やし、常滑焼の技術革新を行ったので、その後は色々の陶器が焼かれるようになり、土地の人々の働き場所が多様に増え、明治大正年問には、赤物の他、土管や水甕、瓶、朱泥焼(茶器、火鉢、植木鉢)などを大量に生産しました。中でも土管や甕、瓶など手造りによる大量生産の仕事は常滑焼独特の大掛りな製陶方法が工夫されて、単作仕事だったわが国陶器造り
の習俗を破り、工業方式による異例の窯業を創造しました。