狐塚[晩台(小字名狐塚、昭和61年町名変更の際、晩台と改名)]

昔、田の神を祭る祭場として築かれたものです。田の神は、冬は山に在り、春は田に降って秋の収穫が終るまで稲作の守護に当たると信じられていました。その田の使いが狐であり、狐塚には狐が棲んでいると言われています。
この狐塚が造られたのは、この地に住んでいた人々が三狐神社を祭って産土神とした時とほぼ同時代の奈良時代かそれ以前と思われます。三狐神社も農耕の神であり、狐塚と相対して造られたようです。三狐神社もまた狐を使いとしていたとの口碑があります。
古代小倉地区は前山川、矢田川下流のデルタ地帯で入江に囲まれた中洲のような地形にあったと思われます。海岸では魚、貝、海藻の採取とともに製塩が行われていました。東方の平地で稲作も行われ、ます池は条里制の遺構と言われます。その稲作地区の一番西の端に狐塚が造られましたが、そこは製塩を行う入江に接しており、塚は製塩で使った土器の破片や焼石のかけらなどの混じった土で造られました。狐塚は製塩の遺跡でもあるのです。やがて矢田川に堤防が築かれ、狐塚の部分を残して干拓が進み、周囲は次第に稲田と化していったと思われます。狐塚のあるところは、「狐塚」の小字名で呼ばれてきましたが、昭和61年の町名変更の際「晩台」と改名された上、雑草に埋もれたまま放置されていました。貴重な民俗文化財の煙減をおそれた小倉地区の有志が相図り、塚の周囲を整備し「狐塚」の碑を建て、末長く史跡として保存を期することになりました。

平成二年九月吉日 小倉地区狐塚保存会
愛知用水土地改良区小倉管理班


なお、市内には他にも多くの石碑があります。
「つちのこ」では平成10年に「郷土の碑」という小冊子を作成し、そちらで紹介しておりますので参照していただければ幸いです。