高讃寺 [西阿野]

山号を御嶽山寺称を高讃寺と言い、開祖は行基菩薩です。白鳳12年(684)、今から1300年ほど前、聖武天皇の朝僧「行基」なる人が天王の祈願所として建立したもので、当初は現地より1km奥地の武豊寄りの山中に御嶽山として建てられました。
七堂伽藍三百坊を有し、天竺より香木を取り寄せ、多数の仏像を彫刻奉安したと言われています。戦国の世に度重なる戦史の上、九鬼の豪族の難に遭い、伽藍、仏像、寺宝、古記録などを焼失しましたが、信者の手により、地中の池の中に埋蔵したわずかの仏像を掘り出し、付近の寺院に奉安されたと伝えられています。 現在の高讃寺は焼け残った唯一の南坊と言われています。
木彫の聖観音菩薩(鎌倉時代)、阿弥陀如来(平安時代)、仁王像(南北朝)はともに県の指定文化財とされています。


高讃寺仁王像 二躯 愛知県指定文化財 [西阿野]

二像とも像高203cm寄木造彫眼で、双方とも一材を像の中央で左右に割矧ぎ、さらに両外側に各一材を矧いで仕立てています。この仁王像は通称「オニゴッサン」と言われ、その力強い作風から、鎌倉時代から南北朝時代も古い頃の作で、常滑市内最大の巨像としても重要な作品です。
この像のできた当初は、木彫に布張りで色彩が施されていたことが後世に修復の際分ったそうです。
守護神にふさわしくカッと見開かれた大きな眼、人問の生から死を表す阿、吽の口元、その鬼のような物凄い形相が千年の歴史を経て色褪せてもますます風格を増しています。
仁王さまは、僧の階級の一番低い独銛倡と言われ、神仏のどんな宗派にも関係なく、すべての人々の一切の苦難を救って下さる方であるとのことです。


昔ばなし 池の中から出てきた仁王様

昔、樽水であったお話です。樽水の本宮山の前方下の御嶽池の中で側かがうず巻いているのを村人が見つけました。みんなに呼びかけ大勢の村人は「アレは何だ。大蛇でもいるのか」とさわいでいる時、勇敢な村の若い衆数人が池の中に入ったところ、何か木のようなものがある。「オーイ縄を持ってこいや」といって「ソーレ」と投げた縄を木のようなものに縛り引き上げたところ、立派な仏様「コリャ仁王様だ、どうしたものか」と話し合った村人は洞雲寺へ運ぼうと話が決まり、縄を引く人、後から押す人、しかしどうしても動かず、弱り果てた村人は、もう一度池の中へ…イヤ折角上った仏様だ。それで高讃寺へと話がまとまり「ソレ引け」と引いたところ、今までビクともしなかった仁王様がまるで足でも生えたように軽々と動き高讃寺へ見事納まりめでたし、めでたし。
今では県指定文化財として高く評価されています。
昔は阿野樽水は一つの村で、知多郡枳豆志(キズシ)と言っていたそうです。現在も本宮山前方の御嶽池はまわりの木々にかこまれて存在しています。