広目寺と弘法山 [広目]

広目寺は縁起によれば弘法大師創建の古刹にて大師御修業の霊地とあり、元は一乗山広目寺と称し7つの坊舎があり、広目小鈴谷の両村において350石を領有して大いに栄えたが、慶長5年8月、九鬼嘉隆軍に侵略され伽藍坊舎悉く焼亡、僅かに毘沙門天王、大船若経の写経、十六善神十三仏の画幅が残ったのみで遂に廃寺となりました。それより135年後、元文元年の3月、元豊祐梶和尚によって大谷村の瑞雲寺をここに移し、信者大願の堂宇再建が成りました。大正11年寺名を元の広目寺と改称しました。広目寺という名は、かつてこの村にあって七坊を有していた大坊の名に由来しています。


広目の桧椿 [広目]

その昔、汚い旅のお坊さんが広めに辿りつかれた。衣は破れ、身体は垢にまみれていたが、村の人たちは気の毒に思って、食料やらいろいろとお世話したという。その後お坊さんは去られたが、弘法山の杖の趾にはシバ(イササキ)が生え、葉の付根から桧の葉が出て実もなっているという。それは今でも続き、桧椿といっしょである。
大方毘沙門天像を彫刻された時の事と思えます。
そして広目のお祭りは、4月2日、3日だそうですがその日はほんのちょっとご馳走を作るだけでその後の弘法大師のご命日には大ご馳走をして親せき等を呼ぶ慣わしだそうで、今でも七堂伽藍の名残りが広目の地名に東坊、西坊、南坊、北坊とあるとのこと。